勘違い。

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最近いろんな本読んだり、考えたりしていると
自分が正しいと思ってやってたことが実は違うんちゃうかと思うことがある。

他人がこう思ってるやろうって根拠もなく推し量って、
自分の行動に制限かけたり、自分がしたことを後悔したり。

それを「人それぞれ考え方が違うし、仕方がない」って
自分がしたことを正当化して勘違いして
生きてきたんちゃうかってめっちゃ思う。

人の目を気にし過ぎるきらいがあるからなー。
当たって砕けるタイプじゃなく、当たり障りの無いようにやってく。
でも、ここぞって言う時には勇気出していくけども、
そこには一瞬の達成感はあるけど、時間が経つと後悔に変わっていく。

でも、そのやり方にも限界あるよなぁと思ってる。
なんと言っても寂しい。もっとやりたいこと、叶えたいことあるのに。
フラストレーションが溜まってしまう。

そう思う一方で、胡散臭いとか鬱陶しいとかイタイとか思われたくないなぁって思ったりする。
いじめられっ子根性(?・笑)なのかしらんけど。

この二つは二律背反なので、どちらかを捨てなきゃなんない。
となればやはり、後者を捨てるべきかなぁと思っていて、
如何にそう思わなくするかが重要じゃないかって今すごく思っています。

こないだのITフェスティバルで、トリドールの末広さんがいいことお話してくれてて、
「『怪しい』『胡散臭い』は『新しい』に置き換えてみたらいい」と。

それなりの立ち振る舞いは必要とのことでしたが、そう自分は新しいんだ。
そう思おう。

いい勘違いをいっぱいしていきたい今日この頃。

書いた人

1978年4月11日 大阪府高槻市生まれ

コロナ禍の閉塞感とまわりを気にし過ぎて自分を出せずに病み、適応障害と診断されたものの、幼少期から続く抑圧と愚痴聞きによる過剰適応らしく現在も心療科に通院中。
結局家族、お金、家を失い、いろんなところでいろんな仕事をする「移働家」として再起を図ろうと企み中。

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